第9回 「あぶないコンビニ食大賞」発表
(1999年12月期)

 

いのちの持つ不思議さに、静かな感動を覚える

(T.A.愛知県犬山市、女性、20代、ミュージシャン)
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 いのちって何ですか? この問いかけをして、「いのちって◯◯です」というはっきりとした答えを返せる人に、私はまだ出会ったことがない。あなたにとって一番大切なのは何ですか?という問いに対して、「いのち」と答える人はとても多いのに…だ。日々の生活の中で、いのちって何ですか?と問いかけない限り、私は何となく分かったような気になっている。しかし、ひとたび「何なのか?」と答えを探し始めると分からなくなるのだ。
 ただひとつだけ分かっていることがある。それは、いのちがなければ、人も豚もみな切られても痛くないし、時間が経てば腐ってしまうということだ。だから、夕食のおかずのトンカツにナイフを入れたら、豚が叫び声をあげたということもないし、肉や魚が炎天下で売られているということもない。
 しかし、日々私が生きてゆくために食べている豚肉や鳥肉は、最初から「肉」だった訳ではない。もともとは、それぞれがいのちある豚であり、鳥であったはずだ。人間が生きてゆくために、「いのちあるもの」で居続けるために、他の動物を肉に変え、その「いのち」を食べている。
 ところで、いのちがあるのは、動物と言われる生き物だけなのだろうか? 私の知人の一人はベジタリアンで、彼女はよくこんなこを言っていた。「わざわざ動物を殺さなくても、植物を食べればいい。怖がり、痛がる動物を無理に殺すなんて残酷すぎる」。何かが違うと思った。植物にもいのちがある。動物と同じように殺されるのは痛いはずだ。何年か前にこんな話を聞いた。道路工事の邪魔になるからと大きな老木を切ろうとしたら、枯れかけていたにもかかわらず、突然つぼみをつけたというのだ。「私を殺さないで」と、木は必死に訴えたかったのではないだろうか?
 人に生まれてくる時、神様にいのちをもらう。生きている間は他の生き物のいのちをもらう。死ぬ時は神様にいのちを返す。いつ頃からかは分からないが、私はこう考えるようになった。だから、食べるために殺すのは仕方がない。常に感謝の気持ちを忘れず残さず食べればいい。だが、人の便利さのためだけに殺してはいけない。食べもしないのに殺してはいけない。私はそう思う。
 ここまで書いてきたようなことを考えながら、私は暮らしている。いのちを食べて生かされていることや、ケガをしてもいつのまにか治っていることに気づいた時、そして、いのちって何だろう?と問いかける時(残念ながら、まだ答えは見つかっていませんが)、いのちの持つ不思議さに魅かれ、静かな感動を覚えずにはいられないのである。

 

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