いのちの持つ不思議さに、静かな感動を覚える
(T.A.愛知県犬山市、女性、20代、ミュージシャン)
イニシャルの場合は、姓名の順です。
いのちって何ですか? この問いかけをして、「いのちって◯◯です」というはっきりとした答えを返せる人に、私はまだ出会ったことがない。あなたにとって一番大切なのは何ですか?という問いに対して、「いのち」と答える人はとても多いのに…だ。日々の生活の中で、いのちって何ですか?と問いかけない限り、私は何となく分かったような気になっている。しかし、ひとたび「何なのか?」と答えを探し始めると分からなくなるのだ。
ただひとつだけ分かっていることがある。それは、いのちがなければ、人も豚もみな切られても痛くないし、時間が経てば腐ってしまうということだ。だから、夕食のおかずのトンカツにナイフを入れたら、豚が叫び声をあげたということもないし、肉や魚が炎天下で売られているということもない。
しかし、日々私が生きてゆくために食べている豚肉や鳥肉は、最初から「肉」だった訳ではない。もともとは、それぞれがいのちある豚であり、鳥であったはずだ。人間が生きてゆくために、「いのちあるもの」で居続けるために、他の動物を肉に変え、その「いのち」を食べている。
ところで、いのちがあるのは、動物と言われる生き物だけなのだろうか? 私の知人の一人はベジタリアンで、彼女はよくこんなこを言っていた。「わざわざ動物を殺さなくても、植物を食べればいい。怖がり、痛がる動物を無理に殺すなんて残酷すぎる」。何かが違うと思った。植物にもいのちがある。動物と同じように殺されるのは痛いはずだ。何年か前にこんな話を聞いた。道路工事の邪魔になるからと大きな老木を切ろうとしたら、枯れかけていたにもかかわらず、突然つぼみをつけたというのだ。「私を殺さないで」と、木は必死に訴えたかったのではないだろうか?
人に生まれてくる時、神様にいのちをもらう。生きている間は他の生き物のいのちをもらう。死ぬ時は神様にいのちを返す。いつ頃からかは分からないが、私はこう考えるようになった。だから、食べるために殺すのは仕方がない。常に感謝の気持ちを忘れず残さず食べればいい。だが、人の便利さのためだけに殺してはいけない。食べもしないのに殺してはいけない。私はそう思う。
ここまで書いてきたようなことを考えながら、私は暮らしている。いのちを食べて生かされていることや、ケガをしてもいつのまにか治っていることに気づいた時、そして、いのちって何だろう?と問いかける時(残念ながら、まだ答えは見つかっていませんが)、いのちの持つ不思議さに魅かれ、静かな感動を覚えずにはいられないのである。
●「脱コンビニ食大賞」バックナンバー
第14回(2008年1月期)
|
「宇宙といのち」
|
第13回(2003年11月期)
|
「どうして、地元の野菜がスーパーに並ばないのでしょう」
|
第12回(2003年10月期)
|
「将来を考えると子どもが作れないんです」
|
第11回(2003年
9月期)
|
「いのちに向き合う時間を作りたい」
|
第10回(2000年
1月期)
|
「ほんものを見抜く目を、いまこそ養いたい!」
|
第
9回(1999年12月期)
|
「いのちの持つ不思議さに、静かな感動を覚える」
|
第 8回(1998年
6月期)
|
「一命を取り留めた、私の「大腸ガン」体験」
|
第 7回(1999年
5月期)
|
「動物のいのち軽視は、人間の軽視ですね」
|
第 6回(1999年
2月期)
|
「帰国して和食を食べると、頭痛がします」
|
第
5回(1998年12月期)
|
「この文章、僕いま授業中に書いています」
|
第 4回(1998年
8月期)
|
「やはり変。学校現場はのんきです」
|
第 3回(1998年
7月期)
|
「コンビニ弁当ばかり。私、馬鹿でした」
|
第 2回(1998年
4月期)
|
「アルバイトで、フーゾクやっています。いま入院中」
|
第 1回(1998年
3月期)
|
「私の決意は、……1日も持ちませんでした」
|
|